2014年1月3日金曜日

第2回「アニメ界に入る(1)」

 アニメ界における私のルーツをたどってみることにした。年々記憶が薄れ記憶のかなたに消えてゆく。どこかで記録しないと全て無かった事になってしまう気がするからだ。

 1964年に新幹線ゼロ系が開業する前年、1963年にアニメ界に入った。最初の会社はTCJだった。(日本テレビジョン株式会社)という名称だが、日本TVとは無縁のヤナセ自動車系列のテレビコマーシャルの制作会社であった。現在は【サザエさん】のエイケンとなっている。今や懐かしい「桃屋の江戸むらさき」「柳原良平のトリス」などアニメーションをCMに取り入れた、当時としては珍しい先進的な会社であった。もちろん入社するまでそんな知識は無かった。

 それ以前の私は映写技師をやったりデザイン会社に勤めたり、かたわら漫画同人誌に参加して青春の不安の中を漂っていた。同人の一人にまだ高校生だった“坂口 尚”がいて当時から素晴らしい才能を発揮していた。(彼についてはいずれ詳しく記したい) 休日に四、五人の同人が新宿南口で待ち合わせて集いマンガ談義を楽しんでいた。 漫画家を夢見ていた私は、つてをたどって手塚先生にお会いして原稿を見ていただいたり、それなりに活動はしていたが、これは、というものにはめぐり合えない迷える青春の真っ只中だった。

 ある日、新聞の三行広告に「TVアニメーター募集」とあった。TCJという、まったく知らない会社であった。あわてて電話を入れ応募した。このように書くと事は簡単に進んだように思えるが現実は世間知らずで人見知りの漫画少年には一大決心だった。事実、電話口で何を話したのかすら記憶の果てに消えている。たぶん冷汗もののしどろもどろの受け応えだったのだろう。とりあえず受験することとなった。当時はFAXは無い、当然メールも無い時代、電話口で聞いた住所と市販のポケット版の東京地図を頼りに品川駅を降りる。品川は地元だったので何度か降りた駅だが東口は初めての経験だった。駅を出るまでが大変だった。かなりの距離の地下道を通って改札にたどり着く。後でわかったが、週に何度かこの地下道が人で埋め尽くされることがあった。某宗教団体の富士の宮参りの列車が出る日であった。青年部の若者がてきぱきと列を整理するさまは感動すら感じさせるほどの手際のよさだった。前向きなエネルギーを持った青年たちだった。当時同様の青年たちは若い根っこの会と、代々木のほうに居た。時折、新宿御苑で出会う彼らは同様のオーラを放っていた。漫画同人誌という、少しはすに構えた私には無縁の前向きなオーラだった。改札を抜けると広い砂利舗装の道。左右は巨大で無味乾燥な工場と煙突、屠殺場のタンク。少し獣くさい。西部劇のように風に土ほこりが舞う。海岸通り(第一京浜)に突き当たって左折する。しばらく行くとコンクリート塀が続いてTCJの入り口、受付があった。実写のCMもやっていた関係で、見た目は小さな撮影所だ。これも業界に入り東映、東宝、などの撮影所を見た後でわかったことで、当時はただの町工場のように思っていたことだろう。集まった受験者は木造の事務所に集められた。事務所の壁に貼ってあった「仙人部落」のセル画が記憶に残っている。セル画を見たのはそれが最初だった。その後、銘々呼ばれて別の部屋に通され何点かの作品(私の場合は同人誌用漫画原稿)を提出、簡単な絵のテスト(模写だったか?)と面接を受けた。この面接の記憶もまったく残っていない。ただ、後でわかったことだが、このとき面接をしてくれたのが当時CMでは著名だった“大西 清”さんだった。


 試験結果の結果を知らせる郵便を待ちわびた。期日を過ぎても通知は届かない。「落ちたのか!?」不安が渦巻く。試験に来ていた自信たっぷりの面々を思い浮かべる。ますます不安が増す。「電話をしようか?」と考えたが、「落ちているから通知が来ない」「落ちていたら恥ずかしい!」と、普段の臆病な自分が顔を出す。しかし、それでは前に進まない。意を決して電話のダイアルを回す。私の人生において、これほど何度も迷ったすえに電話をした事は無かった。駄目でもともと!!
「あの、奥田と申しますが……アニメーターの試験の件で」
  応対に出た女性はなれた応対で緊張している私のことなどは気にもしなかった。世の中、自分が思っているほど人は気にしていないものだ。 私の名前を聞き電話の向こうで紙をめくる音がする。不安……!
「奥田様ですね、受かってらっしゃいますよ……」
 オオ~~!! ここから私のアニメ人生が始まった。51年前の春であった。