2014年11月26日水曜日

あにれくのあぶく:博多

どうも。博多です。

前回、ゲームが趣味と書きました。
その後、9月に日本でXbox Oneが発売され、
私のゲームライフはさらに充実しております。
この2ヶ月で購入した、「Forza Motorsport 5」「Forza Horizon 2」
「SUNSET OVERDRIVE」「Halo: The Master Chief Collection」の4本だけでも
軽く2~3年は遊べそうです。

2014年10月20日月曜日

第1回 神志那弘志の実践パース講座 アフターレポート

10月12日(日)に「あにれく講座」の第2弾として「第1回 神志那弘志の実践パース講座」が行われました。
6月の「奥田誠治の絵コンテ講座」から4ヶ月ぶりの開催です。
雲が厚く、あいにく快晴とはなりませんでしたが、雨も降らず過ごしやすい秋の一日でした。


会場は前回と同じ東京工芸大学中野キャンパス2号館。
受付開始時間から受講者が来場し始め、大きなトラブルもなく席が埋まっていきました。

事前に筆記用具と30cm定規を持参していただくよう、告知はしていましたが一応、忘れた方のため
にも予備の筆記用具を多めに準備。
……ですが、杞憂でした。
予備品はほとんど使われることなく、皆が着席していきます。





2014年8月5日火曜日

あにれくのあぶく:博多

どうも。博多です。

子供の頃から変わらず続いている趣味があります。
それはゲームです。

仕事が終わって帰宅すると、必ずゲーム機を起ち上げます。
毎日、最低2時間は遊んでいます。
そんな生活が私の中では当たり前になっていて、
ゲームをやらない人が普段、家でくつろいでいる時に何をしているのか分かりません。
ちょっと心配です。暇を持て余してるんじゃないかと。
……というように、ゲームなしの生活が考えられないくらいの重症です。

近年のゲームは非常によく出来ている上に、
やりこみ要素も満載で1本のソフトを遊び尽くす前に、
次にやりたいゲームが発売されてしまい、
いわゆる「積みゲー」が量産されている状態です。
正直、老後(この仕事にそんなものがあるか分かりませんが)は、
今までに溜めてきた「積みゲー」の消化だけで過ごせる自信があります。

今後、ここでゲームについても、ちょくちょく書いていくことになろうかと思います。
14年現在、私は熱狂的な「箱信者」です(分かる人だけ分かってください)。
絶賛フレンド募集中です。
以後、お見知りおきを。

では、また。


2014年8月5日       博多正寿

2014年6月8日日曜日

第4回 奥田誠治の絵コンテ講座 アフターレポート


「奥田誠治の絵コンテ講座」がAniLec主催により平成26年6月1日(日)に行われました。

前回から実に4年2ヶ月ぶりの開催となりました。
天候は、快晴で申し分なし。

ただし気温が30度を越え、6月初日としてはかなり暑い真夏日となりました。

会場となった、東京工芸大学中野キャンパス2号館はこの春に新築されたばかりで、まだ真新しい塗装の匂いが残っていました。

白を基調としたモダンなデザインの建物で、中央の吹き抜けは地階でも地上階と錯覚するほど大きく開かれていて、中庭のような空間となっています。

吹き抜けのおかげか、強烈な日差しの中でも構内には心地よい風が常に流れていて、「うだるような暑さ」を感じることはありませんでした。

受付開始時間の13時を待たずに、受講者が来場し始め、定員144名の教室はみるみる席が埋まっていきました。

事前申し込みが間に合わず、飛び込み参加された学生さんが多数いらっしゃったこともあり、最終的には113名(業界人44名、一般30名、学 生39名)と過去最多の受講者数となりました。

開講前には、神志那弘志氏から絵コンテ講座を開く意義についての説明があり、アニメ制作における絵コンテの重要性が改めて語られました。

とかく絵の達者なコンテが持てはやされがちですが、「絵が描けなくても、絵コンテは描ける」。

続いて、講師である奥田誠治氏が登壇し、絵コンテ講座が始まりました。

まずは、絵コンテを描くための心構えについて。

大前提として、コンテを描くということを好きになってほしい、とのこと。

コンテを描くことは誰にでも出来ると言い切る奥田氏は、曰く「描いてしまえば、勝ちです」。

描き出すまでの下準備やコンテ用紙の説明、アイデアに詰まった時の対処法など、時に笑いを交えながら講義が進められていきました。

その後、オーソドックスなファンタジー作品(架空のもの)の絵コンテをサンプルとして、具体的な用語やカメラワークの説明、場面や状況にあった適切なカメラアングルの選択など、実践的な内容に話が進んでいくと受講者は熱心にメモを取りながら聞き入っていました。

「上手(かみて)下手(しもて)」問題、イマジナリーラインの重要性、カットあたりの秒数、アニメ作品ならではの見せ方など、現役で絵コンテを描いている人間でも気になる内容にまで話は及びました。

奥田氏は「【眼高手低】にならないように」と釘を刺した上で、「描く前に悩まない。まずは描く。描いてから悩んでください」となかなか絵コンテを描き出せずにいる人にエールを送りました。

と、ここで休憩。

休憩明けの後半は、質疑応答の時間に充てられました。

パチンコ関係者やCGオペレーター、シナリオライターなど他業種の方も多数受講されていて、質問は初歩的なものからテクニカルなもの、奥田氏の過去の逸話について、など多岐にわたりました。

こちらも興味が尽きない内容で、後半の1時間半はあっという間に過ぎていき、終了時間が来てしまいました。

受講者の万雷の拍手の中、秋にはパース講座の開催を約束し、「第4回 奥田誠治の絵コンテ講座」は終了しました。

講座終了後、建物出口の扉が開かないなどの不手際がありましたが、大きなトラブルもなく、つつがなくイベントを終えることが出来ました。

この場をお借りして、受講者の皆様には厚く御礼申し上げます。

関係者一同、今回の【成功】を心より喜んでおります。

本当に本当にありがとうございます。

あにれくのあぶく:ヤマト

始めましてヤマトナオミチと言います
博多さんが名前の事言ってましたので自分も少し語ってみようかと……
この名前は本名でわかりやすく読めるようカタカナにしております
この名字なので子供の頃は宇宙戦艦とからかわれましたが
両親もアニメのヤマト好きだったのもありあまり不快に感じず過ごせてました
ただ覚えやすい名前でもあり
一度変な噂つくと忘れられないと覚悟して振る舞っていたりしてます

故郷は山口県の周防大島で幼い頃は民放は二局しかなくいつもテレビ欄にある
他の局にある魅力的なタイトルにどんな内容かと想像を巡らせておりました
そんな自分が上京してなんだかんだと二十年以上アニメ業界で過ごし演出として
もう十何年も現場でお世話になるとは想像がつきませんでした

今も目が覚めるとあの木造校舎で友人とバカな話をしていたあの頃に
戻ってしまうのではと感じたりする時もあったりします

徒然と書かせていただきましたが
アニレクの活動を通じていろいろなかたと出会うのを楽しみにしております

よろしくお願いします。


2014年6月8日       ヤマトナオミチ

2014年5月10日土曜日

あにれくのあぶく:博多

どうも。博多です。

「あにれく」のメンバーは、現在スタッフ紹介のページに掲載されている人たちだけではありません。
本業が忙しくて、プロフィールを書くゆとりがない方もいらっしゃいます。
また、諸般の事情で名を明かせないという方も…。

それなりの大人数で運営している「あにれく」ですが、まだまだスタッフが足りていません。
アニメ業界の常で、みなさん年中忙しくしてますし、月一回の定例ミーティングも出席率は半分から三分の一といったところです。
スタッフ全員が揃う機会はほとんどないといってもいいでしょう。

ただし!
絵コンテ講座は別です。
元々、絵コンテ講座のために集結したスタッフです。
講座の当日にはスタッフが一堂に介しますので、どんな人たちが関わっているのか興味のある方は是非とも絵コンテ講座を受講してみてください。

業界の方だと、勧誘されるかも知れませんが(笑)。

では、また。

2014年5月10日       博多正寿

2014年5月6日火曜日

あにれくのあぶく:博多

はじめまして。
あにれくの運営に関わらせていただいてます、博多正寿と申します。

私は九州の出身です。
「博多」という名字なのでよく「ご出身は福岡県ですか」と聞かれますが、
実は熊本県出身です。
出身地フェイントです。

詳しくいうと、熊本県第二の都市といわれる八代市の出身なんですが、
第二の都市とは名ばかりで結構な田舎町です。
特段有名な観光名所もないし、遊ぶ場所も少ない。
車持ち前提の田舎なので交通の便も悪い。
正直、帰省するとやることがなくて時間をもてあまします。
でも、そんな故郷が大、大、大好きです。

私の理想は、そんな田舎に家でも建てて、時々絵コンテ描きながら悠々自適に
暮らすというものなのですが、どうもそういうわけにいきそうにありません。
アニメ村に骨を埋めることになりそうです。
でも、それはそれで幸せなことだと思ってます。

ちなみに。
その昔、マッドハウスという制作会社に勤めていたことがあったのですが、
私が辞めた後に福岡県は博多出身の熊本さんという人が入ったそうです。
どういう偶然だよ。

では、また~♪

2014年5月6日       博多正寿

2014年4月21日月曜日

あにれくのあぶく:大石

みなさん、はじめまして!
あにれく運営スタッフの大石美絵と申します。
まだまだ歩き始めたばかりの私たちですが、アニメをより深く楽しんで頂けるような企画を目論んでおりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

さて、このコーナー「あにれくのあぶく」は何かと申しますと、あにれくスタッフの日々の出来事や考えたことなどを綴る、
…ま、あれですよ、よくある「スタッフブログ」ってやつですよ(爆)

「あにれくのあぶく」というタイトルですが、これは私の好きなバンド、フラワーカンパニーズの「日々のあぶく」という曲から取りました。
フラワーカンパニーズは昨年「宇宙兄弟」のEDで「夜空の太陽」という曲が使われていましたね。 アニメ業界人にファンが多い伊集院光氏の一押しのバンドとしてご存知の方もいるかもしれません。
かくいう私も伊集院さんのラジオで彼らの代表曲「深夜高速」を聴いて好きになりました。
フラワーカンパニーズの良いところは、「目線が絶対に上に行かない」だと思っています。
日常の、見逃してしまいそうな事から心に響くものを生み出す、これは出来そうで大変難しい。
フラカンさんは、昨日のカレーの事を歌っても、超ロックなんですよ!すごいです!
「日々のあぶく」という曲は、まさにそういう「日々心に感じることを大事にしたい」っていう歌です。
このコーナーも、そんな日常の視点でやっていけるといいなあと思っています。

あにれくスタッフはほとんどがアニメーション業界の人間ですが、ここでの話題は特にアニメに限定せずいきたいと思っています。
人となりが判るような身辺雑記で、読んで下さる方に少しでも身近に感じていただけると嬉しいです!

2014年4月21日       大石美絵

2014年1月3日金曜日

第2回「アニメ界に入る(1)」

 アニメ界における私のルーツをたどってみることにした。年々記憶が薄れ記憶のかなたに消えてゆく。どこかで記録しないと全て無かった事になってしまう気がするからだ。

 1964年に新幹線ゼロ系が開業する前年、1963年にアニメ界に入った。最初の会社はTCJだった。(日本テレビジョン株式会社)という名称だが、日本TVとは無縁のヤナセ自動車系列のテレビコマーシャルの制作会社であった。現在は【サザエさん】のエイケンとなっている。今や懐かしい「桃屋の江戸むらさき」「柳原良平のトリス」などアニメーションをCMに取り入れた、当時としては珍しい先進的な会社であった。もちろん入社するまでそんな知識は無かった。

 それ以前の私は映写技師をやったりデザイン会社に勤めたり、かたわら漫画同人誌に参加して青春の不安の中を漂っていた。同人の一人にまだ高校生だった“坂口 尚”がいて当時から素晴らしい才能を発揮していた。(彼についてはいずれ詳しく記したい) 休日に四、五人の同人が新宿南口で待ち合わせて集いマンガ談義を楽しんでいた。 漫画家を夢見ていた私は、つてをたどって手塚先生にお会いして原稿を見ていただいたり、それなりに活動はしていたが、これは、というものにはめぐり合えない迷える青春の真っ只中だった。

 ある日、新聞の三行広告に「TVアニメーター募集」とあった。TCJという、まったく知らない会社であった。あわてて電話を入れ応募した。このように書くと事は簡単に進んだように思えるが現実は世間知らずで人見知りの漫画少年には一大決心だった。事実、電話口で何を話したのかすら記憶の果てに消えている。たぶん冷汗もののしどろもどろの受け応えだったのだろう。とりあえず受験することとなった。当時はFAXは無い、当然メールも無い時代、電話口で聞いた住所と市販のポケット版の東京地図を頼りに品川駅を降りる。品川は地元だったので何度か降りた駅だが東口は初めての経験だった。駅を出るまでが大変だった。かなりの距離の地下道を通って改札にたどり着く。後でわかったが、週に何度かこの地下道が人で埋め尽くされることがあった。某宗教団体の富士の宮参りの列車が出る日であった。青年部の若者がてきぱきと列を整理するさまは感動すら感じさせるほどの手際のよさだった。前向きなエネルギーを持った青年たちだった。当時同様の青年たちは若い根っこの会と、代々木のほうに居た。時折、新宿御苑で出会う彼らは同様のオーラを放っていた。漫画同人誌という、少しはすに構えた私には無縁の前向きなオーラだった。改札を抜けると広い砂利舗装の道。左右は巨大で無味乾燥な工場と煙突、屠殺場のタンク。少し獣くさい。西部劇のように風に土ほこりが舞う。海岸通り(第一京浜)に突き当たって左折する。しばらく行くとコンクリート塀が続いてTCJの入り口、受付があった。実写のCMもやっていた関係で、見た目は小さな撮影所だ。これも業界に入り東映、東宝、などの撮影所を見た後でわかったことで、当時はただの町工場のように思っていたことだろう。集まった受験者は木造の事務所に集められた。事務所の壁に貼ってあった「仙人部落」のセル画が記憶に残っている。セル画を見たのはそれが最初だった。その後、銘々呼ばれて別の部屋に通され何点かの作品(私の場合は同人誌用漫画原稿)を提出、簡単な絵のテスト(模写だったか?)と面接を受けた。この面接の記憶もまったく残っていない。ただ、後でわかったことだが、このとき面接をしてくれたのが当時CMでは著名だった“大西 清”さんだった。


 試験結果の結果を知らせる郵便を待ちわびた。期日を過ぎても通知は届かない。「落ちたのか!?」不安が渦巻く。試験に来ていた自信たっぷりの面々を思い浮かべる。ますます不安が増す。「電話をしようか?」と考えたが、「落ちているから通知が来ない」「落ちていたら恥ずかしい!」と、普段の臆病な自分が顔を出す。しかし、それでは前に進まない。意を決して電話のダイアルを回す。私の人生において、これほど何度も迷ったすえに電話をした事は無かった。駄目でもともと!!
「あの、奥田と申しますが……アニメーターの試験の件で」
  応対に出た女性はなれた応対で緊張している私のことなどは気にもしなかった。世の中、自分が思っているほど人は気にしていないものだ。 私の名前を聞き電話の向こうで紙をめくる音がする。不安……!
「奥田様ですね、受かってらっしゃいますよ……」
 オオ~~!! ここから私のアニメ人生が始まった。51年前の春であった。

2014年1月2日木曜日

第1回「アニメ界に入る 序」

 思いもよらず自分が70才になったと知ることとなる。13年5月、通院している近所の医院で支払いの際、金額の安さに驚き間違いではないか確認すると、受付の女性に「あ、奥田さん後期高齢者になられましたから保険がお安くなりました……」とニッコリされる。「後期高齢者!?」エコーを伴って頭の中を駆け巡る。そうか、俺は後期高齢者なんだ……納得は行かないが納得するしかない現実を突きつけられて医院を後にする。夏が近づいた日差しが午前中だというのにやけに暑い。甲州街道の信号を渡りつつ「後期高齢者……老人って事だ」けっこう大きなショックが来た。

 老人であることとは関係ないが、最近色々と気付いたことがある。自分が膨大な数の絵コンテを描いてきたこと。「鉄人28号」「宇宙エース」「鉄腕アトム」TVアニメ創世記のこの3作品にリアルタイムで関わったのは私だけだということ。誇るつもりはない。ただ移り気と偶然の巡り合わせがもたらした結果だ。どの作品も楽しく苦しくそして私にとっての青春そのものであった。その日常の中には作品に関わった者だけが知ることの出来る面白さ楽しさがあった。TVアニメの真実を書き残したくなった。

 何故なら誰もそのような無駄と思えることに時間を費やしていないからだ。そのような記録は残していないからだ。

 恵まれた才能とチャンスを生かしスターとして君臨する人。才能はあったがチャンスに恵まれなかった人。どちらも無かった不遇な人。(不遇かどうかは誰も判らないが……)
だが、誰もが等しくアニメ界を支えてきた。そしてみんなアニメが好きだった。
長く中庸のアニメ人生を送ってきた私にはそれを書き残す資格があるのではないかと思うに至った。

奥田誠治  2014/01/02

2014年1月1日水曜日

あにれくのあぶく:神志那

パースちゃん(イラストレーション:神志那 弘志)

2014.04.21  公式Webページを開設しました。
2014.01.01  試作Webページを設置しました。