23日は芦田豊夫氏の命日でした。七回忌になります。
2011年は友人知人との別れが続きました。
出崎 統、荒木伸吾、中村光毅、村野もりみ氏など。寂しい限りです。
2011年5月26日 日記(加筆)
「明日会えないか?」芦田くんからメールが来た。
午前中絵コンテを少しやって出かける。お茶の水は思ったより近かった。順天堂病院へ向かう。一階からエスカレーターで上がる。
エスカレーターの脇で待っている彼が目に入る。ちょっとむくんだか?
「オクダさん、山の上ホテルの経営だから美味しいらしいよ」
(あれ?オクチンじゃない。ちょっと改まった感じだな……)
初夏を思わせるような日差しの中で病院の見舞客でごった返す食堂。いつもなら気になる喧噪も静まりかえった印象で、放射線治療を終えた彼と、前庭神経炎のリハビリをかねてお茶の水まで足を伸した私とが、とりとめのないおしゃべりを楽しんだ。癌は脳に転移。ガンマ線で焼き切ったとのこと……ナプキンにその様子を描いてくれた。医者は天馬博士みたいだった。
彼は私の知らないあいだ頑張っていたのだ。地震の時はすでに入院していたらしい。病院は免震構造だが横揺れはするらしい。車輪の着いた冷蔵庫が病室の端から端へ滑って恐怖だったと。ベッドから脚を伸ばして押さえたとも。お互い笑いあった。
私の前庭神経炎が引き起こすめまい(回転性めまい)の説明をする。
「目の前に見えている映像の真ん中に虫ピンを刺して、それを中心にグルグルって回したみたいなんだ。よくアニメにあるみたいに!」も笑ってくれた。
私の病はウィルス性。一過性のものだった。それが妙に引け目となる。
多数の若手を育てた彼をほめる。いつになく素直に喜んでくれる。
その時、彼はもう覚悟していたのかも知れない。
大きなガラス窓から射し込む日差しに顔を向けて。
「オクダさん、希望はあるよな……」
「あるさ、希望は」
「また会おうな」
「また会おう!」
お互い照れたように笑って別れた。
それが話をした最後となった。
奥田 誠治